ディズニーから考える世界

我流を流れ一流へ合流

【メモ】メリーポピンズ感想

メリーポピンズ・リターンズに向けて前作メリーポピンズを観賞。

率直に言って良くも悪くも「ディズニーらしい」映画。とはいえ「悪くも」とは言えど悪いところなんてほとんどなくて、非常に見応えのある作品だった。

○背景

「映画化権を勝ち取りたかった」の言葉に嘘なしのクオリティ。

○映像

思わず「どう撮ってるの?」と突っ込みたくなるシーンの連続で驚かされる。1960年代だから生まれた妙なミスマッチ感が余計にファンタジー感を香らせる。これが続編でも出せたら綺麗。アニメーションと実写を描き分けるというのも上手くいっていて、リアリティとアニメチックな表現を見事に使い分けられている。

○ストーリー

大筋は荒削りながら豪快な道筋で気持ちいい。各シーンのテンポもよく、違和感を違和感と思わせないシーンが多数。歌と踊りを多用したシーン展開も美しい。

○キャラクター

The・英国紳士のパパが強く、一貫した芯があるもののどこかコミカルで面白い。彼の仕事仲間である銀行の重鎮達も非常にたのしい。トップのドース・シニアとバートの役者が同じなのは気付かないって、まじで。

何よりメリーポピンズが素敵。綺麗なだけでなく、ユーモアがある。初めは厳密そうな面持ちで現れつつ、後半にかけて遊び心で畳み掛けるそのギャップでぞっこん間違いなし。

○ミュージカル

本作では「感情を歌と踊りで表現」したシーンと「まじで踊ってる」シーンが織り交ぜられているのが新しい。特にロンドンの屋根の上で踊るシーン。 煙突掃除の数もアクロバットも魅せ方も興奮させられるだけでなく、パートの掛け声やメリーポピンズのダンスで一緒に踊る姿は、ディズニーパークのショーにおける「参加パート」の原型を感じた。

 

おもしろかった。明日リターンズしてくる。

ソアリンが連れ帰った「東京ディズニーシー」

「イマジネーションや夢を見る力があれば、時空を超え、どこにでも行くことができる」

 

かの有名なカメリア・ファルコによる思想である。彼女のその経歴は、ファンタスティック・フライト・ミュージアムで確認できる。このファンタスティック・フライト・ミュージアムというのは、イタリアにあるポルトパラディーゾという港の丘の上に建てられたのだが……そもそもこんな港は、建物は存在していないし、カメリア・ファルコという女性もまた、史実には登場しない。いるのは単に、東京ディズニーシーという場所だ。

2019年7月23日、満を持して東京ディズニーシーへ降り立つ全く新しいソアリン「ソアリン:ファンタスティック・フライト」。このアトラクションはゲストを世界中へと連れ出すだけでなく、その先に眠る真なる東京ディズニーシーへと旅立つのだ。

 

○ソアリンの概要

https://www.tokyodisneyresort.jp/treasure/soaring/

(公式ホームページより)

 

○カメリア・ファルコという女性

ファンタスティック・フライト・ミュージアム(以下ミュージアム)で開催中の特別展示の中核に位置するのが、カメリアという女性だ。彼女は探検家組織S.E.A.に所属している。

彼女は公式ホームページ内で「飛行の研究に情熱を注ぎ、未来を夢見て努力し続けた女性」と紹介されている。この文言が起こすイメージにはとても大切なメッセージが込められていると思う。

 

○「飛行」

飛行器官を持つ動物や昆虫などとは異なり、人類は長い間彼らを指をくわえて見ていることしか叶わなかった。

有人飛行の歴史は18世紀まで遡ることになる。1783年にモンゴルフィエ兄弟が熱気球を用いて有人飛行を成功させたことから、様々な形式で飛行が実現している。1903年にライトフライヤー号で有人飛行をしたライト兄弟は有名だろう。

そもそも、遥か昔の時代から、度々神話で飛行がカギとなってきた。例えば、西遊記に登場するキン斗雲や千夜一夜物語に登場する魔法の絨毯などは、古い物語として飛行を扱った例だといえる。だがキン斗雲は本来人間には操ることの出来ないものであるし、魔法の絨毯は正に「魔法」として描かれている。これは聖書にすら描かれているらしいが、人類の歴史において、飛行の夢を語るものである。

16世紀頃にレオナルド・ダ・ヴィンチが鳥の飛翔に関する研究を描いたノートが発見されている。彼は空を飛ぶことを常に夢見ており、様々に飛行のためのマシンをスケッチして想像していたらしい。この様子は、東京ディズニーシーにおいて、ミュージアムの隣に位置することになるフォートレスでも見られる。ダ・ヴィンチの夢を受け継いだS.E.A.のメンバーがこれを完成させたのだ。

さらに、ミステリアスアイランドでも知られるジュール・ヴェルヌ1886年に『征服者ロビュール』という小説を刊行している。空気よりも軽い飛行物体である気球の愛好家のところに、空気よりも重い飛行物体である飛行機を操る男ロビュールが現れる。これは、ロビュールが彼らをさらって飛行機に乗せ、世界一周を目論む話である。ここでは既に飛行という夢自体は達成されているが、風に流される以外に移動方法を持たない気球に対して、世界各地を飛び回ることの出来る飛行機が登場する。

このように、飛行の歴史というのは遠い昔からつい最近まで追いかけられてくる。飛行の夢というのは、いつだって人類の希望だったのである。

 

○「東京ディズニーシー」のメッセージ

東京ディズニーシーがターゲットとしている層の中には、1970〜80年代に生まれ、経済が下向きになった1990年代に運悪くも多感な時期が重なった層がいる。彼らに向けて発せられたメッセージは「大人ディズニー」とカムフラージュして、しかし確実に発表されていた。

ここに「ポルト・パラディーゾ・ウォーターカーニバル」がある。このショーはいわゆる「昼のハーバーショー」として初代を務めた。

生で観ていないので大口を叩くことはできない。あくまで個人的にだが、このショーの見所は実は大してないのではないかと思う。内容はストーリーテラーの語りに依存し、同じ文言を繰り返すのも美しくない。イタリア語の曲の中に突如ぶち込まれた日本語歌詞は違和感抜群だし、サイケデリックな衣装を着たダンサーは数こそ多いものの何をするわけでもない。

……だが、それでも許せるほどの魅力がある。それは、東京ディズニーシー全体をフィールドとして使い、メディテレーニアンハーバーという(架空の)イタリアの港を正に表現したことだ。また、エモーショナルな語りとメロディで徹底的に魅せ、何をしてるでもなくとにかく「楽しい」と感じさせる実力である。

初期の東京ディズニーシーのショーを思い返してみれば、ミスティックリズムは何をしているか常に掴めないまま話が進行するし、アンコール!にはキャラクターは登場しなかった。アトモスフィアショーもよく把握できないまま乱立していた。

話をウォーターカーニバルに戻し、続いてショーのストーリーをおさらいしよう。とある美しい島の王女ダニエラ姫は海の向こうにパラダイスを夢見て、国の優秀な有志たちと共に海へ繰り出す。パラダイスが見つからずとうとう嵐に遭うと、船は壊れ、運び込まれた品々は四散してしまう。しかし、ダニエラ姫は海の上に浮かぶひとつのコンパスを見つける。島で運び込まれたもので、彼女の国に伝わる宝。伝えの通りコンパスを開くと、海の声が聞こえるのであった。「あなたにとって一番大切なものは?」「私にとって一番大切なものは、ここにいる仲間の安全と王国の未来です!」と答える。嵐が去っていくと、遠くにひとつの島が見つかった。それはパラダイス、同時に彼女の王国だった。無事帰ったダニエラ姫はここをパラダイスの港「ポルト・パラディーゾ」と名付けたのだった。

彼女の帰郷を祝うお祭りこそが「ポルト・パラディーゾ・ウォーターカーニバル」なのだが、ここに隠された深い意図に気付くだろうか。ずばり、このショーひいては東京ディズニーシーの伝えたいメッセージとは「故郷の素晴らしさ」「誰もが持つ夢の実現」だったのである。2016年、東京ディズニーシーの15周年を祝うクリスタル・ウィッシュ・ジャーニー。「お腹いっぱいご馳走食べたい!」「見たことのない世界をみたい!」「今日をいい日に!」ディズニーキャラクターたちの願う夢は、誰もが持つ夢であった。

アトラクションにも目を向けてみよう。東京ディズニーランドのビジョナリアムでジュールヴェルヌは「潜水艇か……私の夢が……実現したんだね……」と語る。後に海底2万マイルが東京ディズニーシーにオープンした。秘境の神殿を探検するのは誰もが思い描く光景だろうし、センターオブジアースは地球という私たちの惑星について伝えている。人魚の世界を夢見る女の子と、魔法を目の当たりにしたいと思う男の子。日本のパークに嵐撃退機であるストームライダーが生まれたのは、日々台風に苦しむ日本という国だったからこそとも捉えられないか。

東京ディズニーランドは「夢と魔法の王国」だが、これは例えるなら英語の仮定法文法で、「今は叶わないがいつか実現したい夢」を叶える場所なのだ。東京ディズニーシーが伝えるのは英語の直説法文法で、「身近に誰もが持つ憧れ」なのだと思う。

 

○「でも、つくりものでしょ?」

東京ディズニーリゾートを訪れる多くの人は、これを理解している。そう、東京ディズニーリゾートはつくりものなのだ。偽物。フェイク。見せかけ。だが、そこに大きな意味があると考えられないか。

例えば、その例に姫路城が挙げられる。姫路城とは名の知られた日本の城だが、実はこれもつくりものである。何故なら改築が繰り返され、最早、大元の城の原型は留めないからだ。平成に行われた修理ではボルトどめをして、カビ防止剤を撒き、耐震工事までした。果たして江戸時代初期にこんな技術があっただろうか?ないだろう。姫路城は偽物なのだ。

だが、それでは日本の城のファンには激怒されてしまうだろうし、多くの方から「それは筋違いじゃないか」と言われてしまう。無論私はこれを批判する気は無い。あくまで現代の技術で工事されたのは文化財としての補完が目的なわけで、そこに別段「現代的にしてみた」というようなニュアンスはないからだ。それに、多くの人はそんなことも気にせずに姫路城を楽しんでいる。

では、東京ディズニーリゾートはどうか。ここはたしかにほぼ全てが偽物である。特に東京ディズニーシーは実在の地名を声高に名乗るため、その意識は顕著だ。千葉県にニューヨークが存在できるはずもない。だが、ゲストは「つくりものではない」と無垢な子供のように信じ込むことでその世界をあたかもホンモノのように体感できる。

そしてそう、これを言い換えたマインドこそ「想像力」なのである。つくりものの枠を越え、想像力でそれをホンモノとして捉えるのである。東京ディズニーシーは客観的には偽物だ。だが、ひとりの、パークを楽しむ旅人から見れば紛れもなく本物なのだ。

 

○ソアリンが伝えるもの

兼ねてから人類の夢であった「飛行」。既に実現した現代だが、世界中を軽々しく飛び交うことはまだ叶わない。そんな世界で、東京ディズニーシーにやってきたファンタスティック・フライト・ミュージアム。カメリア・ファルコという女性は、私たちの心の奥底に眠るささやかな夢を叶えるために現れた女性なのである。

彼女の伝える夢は「空を飛び、世界中を旅すること」。そんな夢だが、東京ディズニーシーでは《物理的には》叶わない。「イマジネーション」によってそれを叶えるのである。

 

○おわりに

いかがだろうか。いよいよ東京ディズニーシーにソアリンがやってくる。「技術的に遅れていること」や「ゲストが好まないこと」は必ずしも問題ではない。東京ディズニーシーを愛する者の心に、ソアリンはついに飛び立つだろうと思う。

「ディズニーランドの社会学」〜脱ディズニー化するTDR〜について

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新井克弥氏による「ディズニーランドの社会学」が非常に素晴らしい書籍だったので紹介したい。

○たみふるDの考察とほぼ一致

実はこの本を読んで最初に……どころか、読んでいる途中から即座に抱いた感想は「私の考察とほぼ同じじゃないか」ということ。無論私は地方の冴えない学生なので、自身の考えに対してソースや根拠、歴史的背景に疎さを感じていた。新井氏の主張はそういったことを補完するものとしても非常に有用であった。大変ありがたいと思う(もっとも、40歳ほど歳が離れているのでそんな口の利き方は許されないのだけど)。

 

○本書が解説する「TDRの違和感」

新井氏は、これまで多くのゲストが抱いてきたにもかかわらずその真意まで辿り着くことのなかった「なんかヘンだぞ、最近のディズニー」に大きく踏み込んでいる。具体例をいくつかあげてみながら、新井氏のそれに対する考察について考えてみる。なお、今回はあくまでその基本構造のみを取り上げるため、本人による詳しい解説を是非書籍で体感してほしいと思う。

①ゲストの「獰猛化」

近年のゲストは明らかに「獰猛化」している(新井氏の言葉ととある映画を借りるなら「グレムリン化」)。数時間前からショーやパレードに「地蔵」(長時間待機)することや、アトラクションやグッズの情報に過剰に敏感になることについても指摘している点が、大きなポイントとなる。

②ミッキーの「アイコン化」

近年、ミッキーマウスは本来のキャラクターから大きくそれている。かつて映画で「人間らしさ」を追い求められたミッキーマウスだが、東京ディズニーリゾートにおいてはあくまで「スター」「かっこいい」といったイメージを強く持つ。何故ならそれは、東京ディズニーリゾートにおいてはミッキーマウスという「存在」が希求されているのみで、あくまでそこに「ウォルトの作ったミッキーらしさ」が求められないからだ。新井氏はこれを「印籠としてのミッキーマウス」としている。今やミッキーマウス東京ディズニーリゾートにおいて、「ディズニーブランドであること」を担保する存在に留まっているという考え方だ。私はこの考え方に非常に共感することとなった。

③テーマ性「崩壊」について

近年度々話題になるのは、東京ディズニーリゾートは「テーマパーク」としての「テーマ」を軽視しているのではないかという問題だ。新井氏はこれを「文法からの逸脱」あるいは「Dヲタの『マイ・ディズニー』主義」と表現している。これに、東京ディズニーリゾートを運営するオリエンタルランドが応えた(応えてしまった?)ことで、テーマが軽視されるようになったというわけだ。そこでは、ストームライダークローズ反対署名について、ある種のウォルト主義としても評価している。

④世間の「ディズニー化」について

新井氏は、「東京ディズニーリゾートは『脱ディズニー化』している」「現代社会は『ディズニー化』している」という魅力的なパラドックス文を組み上げた。いくつかの根拠に基づくことで、東京ディズニーリゾートが日本の時代を先駆け、これからも駆け続けるであろうことが目に見える。

 

○本書による革新

ディズニーランドという腫れ物コンテンツを社会学から学ぶにあたり、新井氏はさまざまな概念の再定義をすることで臨んでいる。

①「Dヲタ」の再定義

新井氏は、オタクを予め「趣味に没頭する人間」とした上で「日本人のオタク化が進行している」と記述した。そのことで、新井氏のとりあげるDヲタ像は「おそろコーデ」「なんちゃって制服」に留まり、「予め目的としたアトラクションやショーに一目散」であることもあげる。私たちの知るDヲタ層とは乖離しているが、納得もできる一節だろう。近年多くのゲスト(私もそうだが)は、予め何を楽しむかというのを決めているヘビーローテション層が多い。

②「ディズニーパーク」の再定義

新井氏はディズニーパークを「テーマパーク」という立ち位置から大きく飛躍させることに成功している。彼にとって、そしてディズニーパークの本質として、東京ディズニーランドやシーは単なるテーマパークではなく「情報圧にいたぶられることで快感を覚えるハイパーリアル世界」なのだ。ここでは「ネギトロ」を用いた例えや「ハイパーリアル世界としてのアメリカンウォーターフロント」を用いて効果的に解説している。スターツアーズを用いた入れ子システムの解説も華麗。

③「アナ雪ブーム」の再定義

取り上げるのはあくまで東京ディズニーリゾートの異変についてだが、新井氏はこの奇妙な「アナ雪ブーム」についても言及している。これは、近年の東京ディズニーリゾートの環境と非常によく似たセンセーションであるからだが、賛成意見と反対意見を分析しながらその謎を斬る。

 

○概要感想

ディズニーパークを「社会学」としてまで昇華させ、1950年の戦後世界から未来までを追いかける新井氏。「最近のディズニー、なんかヘンだぞ?」に対する追随が異様なまでに行われているだけでなく、パークの本質への言及も忘れない。時たま現れる例え話は秀逸かつ的確で読みやすい。

Dヲタの再定義についてや、「れすとらん北斎」に茶々をいれつつ「レストラン櫻」は評価されるロジックなど、すんなり読めずイマイチの疑問が残るが、読み返せば合点のいく点も用意されており、概ね矛盾もなく、根拠の強い説が多い。

私が兼ねてからDヲタに対し疑問を持っていた「キャラクター希求層」と「ストーリー崇拝層」の分離現象についての言及があったことも個人的には嬉しい。新井氏は彼らを「Dヲタ」「ウォルト主義のDヲタ」と解釈することで説明している。

「なんでこんなにディズニー流行ってるの?」「ディズニーとかクソじゃね?」そして正に「最近のディズニーなんかおかしい?」に対する力強い回答が期待できる上、最終的には現代日本社会の構造へと話は移行していくため、ディズニーの好き嫌いに関わらず多くの人に勧めたい本である。

『僕の私のアトラク論』大会とは

【2019/02/08】応募を一時的に締め切りました。参加者の予定に不都合が生じた場合、改めて募集をかける予定です。詳しくは3月をお待ちください。

 

現在、ツイッター上で「むずかしいオフ会」と(勝手に)題して『僕の私のアトラク論』大会の参加者を募集中です。

 

アトラク論とは?

東京ディズニーリゾートユニバーサルスタジオジャパンをはじめとして、日本……そして世界には様々な「アトラクション」即ち遊園地の遊具が存在しています。単純なシステムの観覧車から、こだわりを詰め込んだダークライド、他の追随を許さない独創的なショー、そして冒険心をそそるスリルライドなどがあります。

これらのものは単に楽しむために設計されたもの……ですが、果たして本当にそうなのでしょうか?

これらアトラクションの中には、ただ楽しいだけでなく、なにか《大きな意味》をもつものがあるはず。そう考えた私、たみふるDが説くのが「アトラク論/アトラコロジー/Attracology」です。

アトラク論では、アトラクションを一種のエンターテイメントではなく、哲学や芸術、文化論やその他様々な学問と結びつけて、或いはひとつの概念として考察します。東京ディズニーランドのミートザワールドが伝える世界の真の姿とは?待ち時間という概念は単に待つだけのものに過ぎないのか?USJと東京ディズニーのアトラクションの違いとは?

「事実をなぞるだけ」ではアトラク論とはいえません。タワーオブテラーの演出に隠された意図とはなんでしょうか。公式に発表はされていないけれど、たくさんのことが考えられるはずです。アトラクションが持つ素質に、あなたの「持論」が混ざり合ってアトラク論になっていきます。

 

「アトラク論」のつくりかた

ここで、アトラク論を論ずる上での基本構造を見てみましょう。元来アトラク論というのは形式なく、割と自由に論ずることができるはずなのですが、そうは言っても「どこからがアトラク論の範疇なの?」「これはどうなの?」という人向けに書いてみます。「そこまで言われなくても!」という方はツイッターで #たみふるDのアトラク論 を検索すると、私が普段どんなアトラク論を考えているかわかりますよ。

サテ、アトラク論を形作る段落は四の部門に分かれています。

①とあるアトラクションの「特徴」

②その特徴は「どんな意味がある?」

③「その他の」アトラクションやエンタメでは?

④「アトラクション」において、それはどんな意味を持つ?

ここで注意するべきなのは、あくまで論ずるのは「アトラクション」ではなく「アトラクション内での『何か』の価値」であるということ。難しいですね。私も時々的外れなことを言ったりします。

具体例を見てみましょう。例えば東京ディズニーシーの「センター・オブ・ジ・アース」。

①センター・オブ・ジ・アースでは、各ライドが独立したエンジンを積んでいるため、急激にスピードを変化させられる。

これはあくまで事実、部門のうちの①にあたります。次は②の、その特徴が及ぼすセンター・オブ・ジ・アースへの影響を考察します。つまり「何故エンジンがある?」「エンジンの及ぼす効果は?」ということ。

②-1センター・オブ・ジ・アースのライドがエンジンを積むことで「ダークライドのような安定感」と「スリルライドの速度感」を演出できる。ストーリーとの関連も理にかなっている。

②-2このエンジンがなす「急上昇と急降下」は、センター・オブ・ジ・アースのアイデンティティとなっており、世界のどのアトラクションでも体験し難いスリルを味わうことができる。TDS内でも非常に貴重なのではないか。

②-3エンジンがあることで増す振動は世界観をよりリアルに描いていて、ライドがネモ船長の発明であることを強調しているのではないか。

このように様々に考えることができますね。これが、特徴と影響の関係性についてです。今度は1と3のいい感じのところをとりあげてこう、他のアトラクションについて続ける。③の部分になります。

インディ・ジョーンズ®︎・アドベンチャーでは、ライドの動きに関わらず座席が前後左右するため、揺れや悪路走行の感覚を効果的にあらわしている。世界各地のトイ・ストーリー・マニア!では、スピーディーで軽快なゲーム展開をライドの速度によって演出している。いわゆる「吊り下げ式」の発明が、正に革新的な「ピーターパン空の旅」やその進化系であるTDSの「海底2万マイル」を生んだことは言うまでもない。

このようにみてみると、センター・オブ・ジ・アース以外にもライドの形式がキーとなるアトラクションが多いようです。それでは、ここからどんなアトラク論がうまれるでしょうか。

④ただゲストを運ぶだけではなく、演出の一環として作用しうるのがライドの「形式」なのである。

というように繋がる。これが最終的に導き出される「私のアトラク論」です。

この形式は基本的な形ですが、崩すこともできます。「このアトラクションはこうだが、他は違う!(③、④に変化をつける)」「このアトラクションはこんなメッセージがある!(③を飛ばして④を強調する)」などなど。その組み合わせは想像力次第です。

 

僕の私のアトラク論とは?

もしあなたにアトラク論が有るなら、聞いてもらう場の存在は欠かせません。その場所こそ正に「僕の私のアトラク論」です。あなたのアトラクションに対する考えや思い「アトラク論」を実際に人の前で話します。

もし話す自信が無くても大丈夫。聞くだけの参加も可能です。多くの人の考えを吸収することで、自身と世界の関係は大きく発展します。

 

アトラク論の発表はどうやるの?

約10分のプレゼンテーション形式です。ホワイトボード利用可能。HDMI及びVGA接続の可能なプロジェクター有り。建物の仕組み上大きな音を出すことは難しいですが、話すもよし、スライド映像を利用するもよし、実物をもってきてなんてことも……???

 

開催の詳細は?

現在は2019年3月24日の開催を予定しています。東京のJR池袋駅から徒歩4分の位置に会議室を借りて開催致します。現在会場は決定しており、参加が近くなり次第、参加者のみに通知します。定員は発表者と視聴者合わせて20名です。

【追記】2019/02/04現在、残り3名を募集中。

 

何処から応募できる?

docs.google.com

こちらから可能です。奮ってご参加ください。

 

おわりに

何か質問等あればたみふるDのツイッターまでご連絡ください。お話しできるのを楽しみにしています!

エンターテイメントの構造〜オタクの生きる道を探せ〜

東京ディズニーリゾートで近年起こる問題の多くに、「Dオタ」と呼ばれるディズニーオタクが良くも悪くも絡んでいることはほぼ確実だと思われる。私もDオタと他称され、しばしば自称することもあるが、これらの問題からDオタが足を洗う、或いはこれらの問題をDオタが解決に向かわせるためにはどうしたらよいのか考えることにした。そして、ひとまずそこにはエンターテイメントの構造が深く関わっていると結論付けた。

※ここでは「おたく/otaku」を「オタク」と表記する。以前の記事と一致しないがどうかお許し頂きたい。

※「一般人」という呼称について、マジョリティを貶める意図はないことを予めお約束しておく。

 

エンターテイメントとは

エンターテインメント (entertainment) は、人々を楽しませる娯楽を指す。楽しみ、気分転換、気晴らし、遊び、息抜き、レジャーなどが類語とされる。

(Wikipedia『エンターテインメント』項より)

エンターテイメントの本質的な意味とは上のようなもので、人々の生活に深く関わるものとなっている。

具体的な例として、音楽があげられる。あのマイケルジャクソンは、世界一成功したエンターテナーとしてギネスブックに名を刻まれている。最もポピュラーなのはここにあたるだろう。

他にも、映画やお笑いなどの話術、小説等が含まれるだけでなく、アニメ・漫画・ゲームという日本のクールジャパン文化にもエンターテイメントとしての側面は強く見られる。

 

エンターテイメントの構造

ここで本題として、エンターテイメントの構造を考えてみよう。エンターテイメントとは「人々を楽しませるもの」とのことだが、ここでは例に日本的アニメを取り上げることにする。

日本におけるアニメ。ドラえもんクレヨンしんちゃんを筆頭に、日曜日の顔となったちびまる子ちゃんサザエさんなど。これらはあくまで子供や家族に向けたものだが大人が後から見ても楽しめるし、ドラゴンボール、ワンピース、新世紀エヴァンゲリオンなどのシリーズは海外のファンからも評価が高い。名探偵コナンのように、毎年映画を上映するものもある。特にこのシリーズは映画終了後に翌年の映画を既に予告するのだから恐ろしい。

さらに細かく見ていくと、ポケットモンスター進撃の巨人などといったゲーム・漫画・小説と他のジャンルをアニメ化したものも多い。前述のドラえもんやその他多くもここにあたるわけだ。

さらに驚くべきことに日本では、広く深く張り巡らされた番組表の中で30分12話のアニメが大量に作られている。これらはおおよそ「深夜アニメ」と呼ばれたりするが、一度完結してから二期や三期、さらにその先へとストーリーが展開するものもある。キャラクターの魅力も相まって多くのオタクを生んでいる。中にはオリジナルストーリーのものもしばしばだ。

……タイトルをあげるのはここまでにしよう。だが、ここで重要なのは単にタイトルではない。必要な考察はそこにある「魅力」についてだ。ここではアニメが持つ魅力のふたつを考える。「物的魅力」と「精神的魅力」だ。「目に見える魅力」と「目に見えない魅力」といってもいいかもしれない。

例えば、話題を呼んだアニメ「はたらく細胞」を取り上げてみよう。

TVアニメ『はたらく細胞

https://hataraku-saibou.com/sp/

この「はたらく細胞」は、人間の体内の細胞やその他様々な体の機関を人間社会に落とし込む、いわゆる「擬人化」コンテンツだ。「赤血球」「白血球」「血小板」といった体内物質は人間のキャラクターとして登場する。つまり人間の中に人間がいるということになる(ややこしい)。内容も興味深く、原作に漫画を据えているが、エピソードのタイトルはそれぞれ「すり傷」「インフルエンザ」などの身体異常や「血液循環」など身体の働きを再現したものだ。

サテ、ここで「はたらく細胞」の持つ、目に見える「物的魅力」は何か。それは、キャラクターのディティールのかわいさや格好良さ、体内の現象を見事再現する置き換えやストーリー、戦闘シーンの描き方などにある。今では理科の授業の資料として「はたらく細胞」公式が資料を作成して無料提供したり、逆にイギリス人の医師が医学的にストーリーやキャラクターの解説をする動画がYouTubeで人気だったりする。ここで共通するのは「映像やコンテンツ自体の魅力」であることだ。

一方で、目に見えない「精神的魅力」とは何か。それは、はたらく細胞を通して彩られる友達との会話や教師との会話をはじめとして、アニメを観た充実感、ストーリーの展開に感動した瞬間などのことだ。例えば「がん細胞」というタイトルのエピソードがある。これは、複製に失敗し生まれてしまったがん細胞が白血球などに襲われる話だ。詳しくは自らの目で確認してほしいが、少しの違いで安心した生活の送れなくなる不安とそんな社会への恨みを込めて逆襲をするというストーリーになっている。特にクライマックスシーンは格別で、各キャラクターのセリフに考えさせられ、思わず涙を流しそうになる。このような「感動」「感激」「笑顔」「人間関係」はアニメ本来の魅力や直接的な魅力ではなく、あくまでこのアニメ(若しくはその原作)が「生み出した」魅力ということになる。「映像やコンテンツが提供する魅力」ということだ。

さて、ここでひとつ質問しよう。あなたはこの作品を観る時、前者の「物体魅力」と「精神的魅力」のどちらを重視するだろうか。

無論、忠実な再現度や原作の成り立ち、個人の好みを考えるとこうも言い切れないのだが、前者に感動するならあなたは「プロ」寄り、後者に感動するなら「視聴者」寄りということになる。これはどういうことか。

 

エンターテイメントの存在意義

ここでエンターテイメントの存在意義を作者以外の第三者が評価する時、ふたつの評価方針がある。

ひとつは「一般人寄り」の評価。これは精神的魅力を重視して評価する方法で、多くの人はこちらに属する。

もうひとつは「プロ寄り」の評価。こちらでは精神的魅力のみならず、物的魅力を大きくフォーカスする。

このふたつの評価方針がある時、示されるその事実。

①エンターテイメントの本来の目的は「人々を楽しませる」ことなので、本質的には一般人寄りの評価が好まれること。

②物的魅力を評価することで、エンターテイメントをある種の芸術として捉えていること。

③一般人寄りの評価=感想、プロ寄りの感想=評論と言い換えられること。

 

エンターテイメントとオタク

多くの人が感想を述べる中、これらの人々は一般人と呼ぶことができる。何故ならアニメ制作経験がなく、充実した情報のない中であくまで「快感」「楽しさ」に重点を置くからである。具体例として、東京ディズニーシーの評価の低さからキャラクター進出が始まった例がある。大人層の足が伸びず、客層をファミリー層に切り替えたことでキャラクターのいないパークは「良い感想」を得られず、キャラクターを多数導入せざるを得なかったという現象だ。ここではファン層で「評価」の高かった「大人ディズニー」「非キャラディズニー」のコンセプトは粉々になった。

一方で、評論を述べる人をプロと呼ぶことができるのは、基本的にアニメのストーリーや構成に精通し、技術やクオリティの相場をよくわかっているからだ。彼らになら芸術点の評価を受けることができる。ここでは逆に、初期の東京ディズニーシーを例とする。イタリアをモデルにしたエリアでは、建物にだまし絵で装飾をする技法のトロンプルイユを採用したが、これは年代や時代としては妥当なものである。実際のトロンプルイユ技師を呼んで行われたこの工程は、パークを訪れたゲストにそういった知識への深い理解がなかったために「手抜き工事」と言われるようになってしまった。また、イスラーム世界をテーマにしたアラビアンコーストにあるレストランのカスバフードコートでは本格的な「カリー」を提供していたが、これは日本人の口に合わせてどんどん日本向けにローカライズされている真っ最中だ。各エリアにはモデルとなった国があるため、トイレの男性・女性表示や表記言語が現地ゆかりのものになっている。男女を間違える人もしばしばだそうだ。プロによる本格派が評価されたのは知識人によってのみだったのである。

さて、ここでいわゆる「オタク」と呼ばれる人はどちらに属するのだろうか。私を含めた彼らの立ち位置は「プロかぶれの一般人」だと思う。この立ち位置は様々な弊害を生む。

 

オタクであることの難しさ

ここで、オタクとは誰なのかここで再定義しておこうと思う。オタクとは、先程述べた精神的魅力のみならず、多かれ少なかれ物的魅力にも興味を示す者のことだとする。知識量は明確には問わないが、知識欲が優先されて然るべきだろう。

「プロかぶれの一般人」がすることは、立ち位置が一般人なのにプロ的な評論を述べること。ここで起きる問題は先ほどの3項と照らし合わせてわかる。

①エンターテイメントの本来の目的は「人々を楽しませる」ことなので、本質的には一般人寄りの評価が好まれること。→「プロでない人間が評論を述べるのはエンターテイメントの本質とずれるので、余計に好まれない」

②物的魅力を評価することで、エンターテイメントをある種の芸術として捉えていること。→「専門としていない人の評論であるために、世間から信憑性を得られない」

③一般人寄りの評価=感想、プロ寄りの感想=評論と言い換えられること。→「評論的内容が感想と共に埋もれることで、マイノリティ側に回らざるを得ないため、言動が理解されにくい」

そうだ、私たちは「プロではない」「一般人と言い切れない」「異質な存在」なのである。

 

○オタクとして生きる道

では、オタクでいることはいけないことなのか。否、決してそうではない。そもそもオタクと名乗ること自体が自己申告だし、知識がなくてもオタクは名乗ることができると思うからである。そして何より、本来楽しませるものとされるエンターテイメントだが、それらとの関わり方は基本的に自由だからだ。

私の定義したオタクの生きる道は、プロかぶれの一般人」から「アマチュア一般人」へと生まれ変わることだ。

東京ディズニーリゾートに帰ろう。近年ではキャストに難癖をつけたり、他のゲストの不注意を厳しく批判し、SNSに晒しあげたりという行為が横行している。私はこういった行為は、「我オタクぞ?」という自意識過剰な愛から来ているものだと思っている。事実、トゥーンタウンで遊び場となっていた木箱が写真撮影の一件で修繕に入った時、真っ先に騒いだのはオタクだった。遡れば、アラビアンコーストでの窓の件もある。トゥーンタウンの木箱は「SNSトラブルが多いから」修繕されている可能性も高いし、アラビアンコーストの件では「撤去だ!」としつこく言ってまわるうちに結局元どおりになって帰ってきたではないか。最終的に原因を作るのは私たち「プロかぶれの一般人」なのである。他の人よりもディズニーが大好きで、ちょっぴり詳しい程度の人間でも、胸を張ってDオタだと名乗れると私は思う。オタクという称号では知識欲は重要視されども、知識や愛そのものでマウントを取るための称号ではないのだから。

「アマチュア一般人」になること。プロという職人の称号と、一般人という民衆の姿の間に自身を上手く見出すことができ、厳かに活動できれば最も理想的だ。アマチュアというのは、プロ匹敵の知識や技術がありながら、それを仕事としない人のことを言う言葉だ。東京ディズニーリゾートにはこのアマチュアの存在が欠かせない。多くを語らず連日混雑が続いている東京ディズニーリゾートに対し、現状をわかりやすく咀嚼して大衆に伝える人がどうしても必要なのだ。今ではパークの情報をYouTubeやブログで発信する人も増えてきた。本を出版するとか、公式側からのお声掛けでインタビューができればホンモノだ。こうしたことを実現した人はインターネット上に少なくない。彼らの声を通じて買うグッズやパークへの日程、当日のまわりかたを考える人も多い。ほんの少し、友達の相談に乗ってあげるだけでもいい。Twitterで、何か呟いてみてほしい。パークで困っている人に、写真を撮ってあげるだけでいい。アマチュア一般人にできることは実に多いのだ。

「プロかぶれの一般人」と「アマチュア一般人」には徹底的な違いがある。本質的に「プロかぶれ」なのか「アマチュア」なのかということだ。「物的魅力を愛せる選ばれし人」というのは正に「プロ匹敵の知識と技術を持つ人」のことなのだ。

 

オタクの在り方

エンターテイメントに限らずオタクというのは存在している。鉄道オタクは実用性とディティールの美しさに惚れ込んでいるし、他にも数えきれない。だがそこにはひとつの筋があって、とにかく誰よりもモノを愛する才能があるということだ。

無料で漫画やアニメ、音楽を楽しむことができる今、対価を払ってそれを楽しむ人は最早オタクがほとんどだと思う。初めて東京ディズニーリゾートを訪れたゲストを案内して、本気で楽しいまわりかたを考えることができるのもオタクだけだ。ニュースで流れる電車のモチーフ映像で矛盾点を指摘するのは鉄道オタクの仕事になっている。

私たちがエンターテイメントに言及することは許されない。だがエンターテイメントについて、人々に言及することはできるのだ。上述の通り、東京ディズニーリゾートについてYouTubeやブログ、SNSで発信する人々がいる。

厳かに、しかし貪欲に。

 

おわりに

まとまらない内容になったが、エンターテイメントの構造とオタクの在り方について考えてみることにした。

私たちは今一度、自身の立ち位置が東京ディズニーリゾートの運営者側と一線を隔てたところにあることを確認する必要があるのではないか。アマチュアとしての活動が期待される。

 

追記。「ミッキーかわいいよね!」って言えればもうDオタでいいと思うんだ。グーフィーでもミニーでもグーフィーでもグーフィーでもマックスでもグーフィーでもいいよ。グーフィーはかわいい。

ディズニーヲタクと「ルール」の本質

東京ディズニーリゾート(以下TDR)では以前にも増して、ルールやマナーに対する意識が薄くなっているように感じる。ゲストのモラルを逸脱した行為は言うまでもなく、キャストの著しく規範を乱す行為もしばしばだ。

そんな中そのルールを是正しようと動く者たちがいる。「Dヲタ」と呼ばれるディズニーヲタクだ。彼らの中にもまた「ルールを守らない」者と「過剰に守らせる者」がいる。Dヲタから見ると、ルールと人間はどのように関わっているのだろうか。

※あらゆる犯罪や違反を助長・推奨する目的はありません。

 

「ルール」の本質

ルールというものの本質を見極めることはとても重要だと思う。例えばこんな事例がある。

1車線道路には、自身の進行方向右側に歩道がついている。人通りはないに等しい。左側は建物が密集している上、歩道やスペースはほとんどない。このコンディションの道であなたは自転車に乗っている。左右どちらの道を通るだろうか?

私は右側の歩道を通るだろう。法律で自転車は左側通行をすることになっているが、その本質は「自転車は車と同じレベルの輸送機器である」ことや「交通に危険と混乱が生じることを防ぐ」ことにある。道のシステムを比較してみるとこの場合、右側を通る方が明らかに「安全」なのである。他の車や自転車、歩行者に迷惑や危害を与える可能性は限りなく低い。

道路交通法上、自転車は軽車両と位置付けられていますので、歩道と車道の区別のあるところは、原則として、車道の左側に寄って通行しなければなりません。

ただし、
1 道路標識等で指定された場合(都内の歩道の約6割はこれに当たります。)(注記1)
2 運転者が児童(6歳以上13歳未満)・幼児(6歳未満)の場合
3 運転者が70歳以上の高齢者の場合
4 運転者が一定程度の身体の障害を有する場合
5 車道又は交通の状況からみてやむを得ない場合
は、自転車で歩道を通行することができます。

(注記1)どなたでも自転車で歩道を通行することができます。

(警視庁ホームページより)

今回の例が5に属するか否かはグレーなところではあるが、私は以前上記のような走り方をして警察が通りかかった時、注意を受けたことはない。警察側もそれなりに「黙認」しているのだ。ルールの本質を見極めるという行為は「ルールがある意味を考えて、その本質を崩さずにルールを破る」行為のことを指す。このように書くと悪意のある行為のように思われるが、自転車にイヤホンをつけて乗るとか、赤信号を渡るとか、横断歩道のないところを渡るという経験は多くの人がしているはずなのだ。

もうひとつ事例を出そう。

道路工事が行われていて道が一時的に通行禁止になった。しばらくして道路工事は順調に進み、終了したため道が解放された。

この時、道が開通した後に「この道は通行禁止じゃなかったのか!」と言う人は恐らくいないだろう。何故なら通行禁止というのは「工事中の安全と物理的障害を受けてのルール」であって「絶対的なルール」ではないからだ。工事中の道を歩くことは大変危険な上、作業を妨げるが、完成した道を歩くことには何の問題もない。だから工事をする側の人間は「一時的にルールを作り、ルールが存在する必要がなくなったので、ルールを取り壊した」のである。「本質的にルールを見極める」行為が公式に行われている例としても良いだろう。

 

海外と日本の「撮影禁止」

話はTDRへと移る。アトラクションを楽しむ人にとって貴重なのは「アトラクション体験動画」と呼ばれるアトラクション乗車中・体験中の様子を動画に残したものだ。一応、TDRでは多くのアトラクションで禁止されているが、日本以外の国のディズニーパークでは責任をゲストに一任した上で撮影を黙認していることが多い。ディズニーランドの本家とも呼べる「ディズニーランド」と、これに比べて大人向けに組まれた「ディズニー・カリフォルニアアドベンチャー」が位置している、アメリカのディズニーランド・リゾートのホームページや各アトラクションページには、撮影禁止という項目はない。

一方でTDRのアトラクションでは撮影を禁止する広告がいたるところにある。ここに隠された真意は何か。

著作権に関する問題の排除

②安全に関する配慮

この二択になるだろうが、前者であるならばショーやパレードの様子を撮影・オンラインにアップロードすることも禁止されるはずである。ショーやパレードの音源CDの管理会社が変わった際に音声原因で非公開措置を取らされたショーやパレードの動画も多数あるので、TDRを運営するオリエンタルランドがその気になればアトラクション体験動画こそ今すぐにでも消し去ることができるはずなのだから、その可能性は高くない。一方で後者であった場合は、キャストとゲスト間の個人的な契約や、ゲスト自身の配慮でどうにでもなる問題なので自己責任……ということになる。このルールはゲストを万一の時守るため、アトラクションの運営を妨げないためのルールであるが、その本質を克服したならばある程度黙認されるはずのルールなのだ。

そもそも、TDRで守られていないルールは多数ある。例えば、外部の食べ物を持ち込んではいけないルールとか。

次のものは持ち込めません。

●刃物や火薬類および一般的に危険物と呼ばれるもの(模倣品を含む)、他のお客様に危害を加えるおそれのあるもの
●ドローンやラジコン機等

酒類

●カン、ビン

●持参した食べ物

●ハードケースおよびスーツケースやキャリーケース等のカート類
●ペットや動物(アシスタンスドッグを除く)

●その他、他のお客様のご迷惑となるおそれのあるもの

(東京ディズニーリゾートホームページ「よくあるご質問」より)

ここでは持参した食べ物は持ち込み禁止になっている。しかし近年、おにぎりやパン数個程度ならキャストが目視したとしても荷物検査を通してくれることは多い。何故だろうか、ルールの本質を考えていきたい。

このルールの本質は「景観を著しく損なうから」という側面が大きい。……レストランで稼げないから、とかあるかしれないが、それはまた別の話。

さて「景観を著しく損なうから」とはいえど、近年のTDRではレストランの混雑が激化しているために、満足に食事をとることができないことも多い。列に並んでから30分はざらで、1時間かかることもよくある。その結果TDRは、景観を気にする暇をなくしてしまったのだ。

ディズニーテーマパークには、「The Four Keys~4つの鍵~」という行動規準があります。

「The Four Keys~4つの鍵~」は、Safety(安全)、Courtesy(礼儀正しさ)、Show(ショー)、Efficiency(効率)で、全キャストにとって、ゲストに最高のおもてなしを提供するための判断や行動のよりどころとなっており、その並びがそのまま優先順位を表しています。(オリエンタルランドホームページより)

これはあくまで私個人の見解だが、ShowのためのルールによってSafetyが失われることはあってはいけないと、急務としての対応だと思う。無論以前からこうだったのかもしれないが。ルールの本質を分析していくと「守るべきルール」と「守らなくても良いルール」……本来的には「守らないことが黙認されているルール」が見えてくる。

 

母の教え

私の母は家庭のルールを犯した私にいつもきまって「ルールは何故あるの」と聞いていた。私はいつも「みんなが楽しく生活するため」と答えていたが、後々考えてみればあれは母が楽しく暮らすためにあるルールで、本質的にそこまで重要なことを言っていたかというものばかりだった。ルールを守ることは確かにいいことであるし、できるならそうすべきだ。だが、ルールを守ることでただ自分だけが理不尽に縛られるようであれば、そのルールの本質を見直すことも大事だと思う。私がこの思考に至ったのはこの発見が発端だ。

 

おわりに

ディズニーヲタクはルールを「守らせる」ことは大好きだが、ルールを「破る」こともまた大好きであることが多い。自分の夢のひと時のために他人の領分を吸い取る人も少なくない。夢見て盲目的になる彼ら(というか私も)だが、ルールを本質的に見極めてはじめて「守らなきゃいけない」という意識が生まれるのではないだろうか。人を殺していいわけでもないし、放火をしてもいいわけではない。ルールの本質を守れないならば、そのルールに従わなければいけない。それは間違いないのだ。

最後に、本質的に不要と判断し守らなかったルールについて指摘を受けたら、正直に謝らなければいけない。個人の裁量で守っていないだけで、世間的には許される行為では勿論ないからだ。

※あらゆる犯罪や違反を助長・推奨する目的はありません。

シュガーラッシュ:オンラインはロジャーラビットの再来か

2018年12月21日に公開された「シュガーラッシュ:オンライン」を鑑賞しての感想と考察を軽く述べたいと思うが、ここで過去の名作映画でありたみふるDのイチオシ「ロジャーラビット」を引き合いに出すことにする。合意点と相違点がはっきりとしていてとても興味深いためだ。

 

映画「ロジャーラビット」制作の経緯

ウォルト・ディズニーの死後、ディズニー映画黄金期が終了し、売り上げとクオリティの低迷が続くことになるが、ここで登場したのが「タッチストーン・ピクチャーズ」である。これはディズニーの映画部門のひとつで、主に大人向けの映画製作に携わっている。

ウォルト・ディズニー社は1923年の創業以来、多くの傑作アニメーション映画を生み出してきた。短編アニメ、長編アニメ、カラーアニメなど歴史に残る業績を残したが、ウォルトの死後(1966年)低迷し、1990年代に再び黄金期を迎えた。(Wikipediaウォルト・ディズニー・カンパニー』項より)

1979年にディズニーが製作した『ブラックホール』は、ディズニー映画としては初めてPG指定を受けた。1984年、ロナルド・W・ミラーはPG指定を受けるような大人向けのディズニー映画を作るための部門としてタッチストーン・ピクチャーズの前身であるタッチストーン・フィルムを設立する。(Wikipedia『タッチストーン・フィルム』項より)

映画『ロジャーラビット』はタッチストーンの3作目として1988年に発表された。7000万ドルの制作費をつぎ込んだこの映画は世界興行収入3億3000万ドルを達成。翌年の『リトル・マーメイド』が2億1000万ドルだったことを考えると偉大な金額である。米興行収入は、タッチストーンとしての処女作『スプラッシュ』が7000万ドル、次作『ハスラー2 』が5000万ドルであり、『ロジャーラビット』が1億5000万ドルである。映画『ロジャーラビット』はタッチストーンとしても、ディズニー本社としてもかなりの進歩なわけだ。

 

ディズニー界のテンションブレーカー、ロジャーラビット

元々この映画には原作小説があり、それを買い取って映画化したのがこれであるが、その内容は奇怪かつ面白いものになっている。

この映画は現代のディズニーのイメージを逆行するような暑苦しい中年男性探偵によるハードボイルドなミステリーで、登場する言葉やトリックは難解、ブラックジョークやえっちなジョークも満載で、その衝撃的かつ意味深なラストは圧巻で一見の価値ありである。今後の文ではストーリーに直接は関係しない、トリビアと呼ぶ程度のシーンについてはかなり言及するので、個人のネタバレ耐性によってブラウザバックしてほしい。

この映画の何よりの見所はディズニー映画としての矜持とクオリティ、イメージやアニメーション、迫真の演技を維持しつつ、従来のディズニーに対するイメージを粉々に粉砕したことだ。後世に残る有名なディズニー映画を観ても、これほどまでに激しい映画はないだろう。

 

ロジャーラビットの特異点

本作には個性的なふたつの手法が用いられた。

ひとつめに「実写とアニメーションの合成」。米1946年に公開された、後にスプラッシュ・マウンテンを生む『南部の唄』同様に実写映画にアニメーションを合成する手法で製作されたが、これは俳優の演技に後からアニメーションを描き込むものだ。

舞台は1947年のハリウッド。トゥーン(アニメーションキャラクター)が実社会に存在しているという設定で、トゥーンと人間の関係を描いている。先に撮影された実写にアニメーションを合成する形で制作された。1988年のアカデミー視覚効果賞・アカデミー編集賞・アカデミー音響効果賞を受賞。(Wikipedia『ロジャーラビット』項より)

この「『トゥーン』が実社会に実在している」という点から、もうひとつの手法が導かれるが、それがクロスオーバーだ。本作はディズニーキャラクターのみならず、ワーナー・ブラザースからバッグスバニー、パラマウント映画からベティ・ブープなど、アメリカンアニメーションの黄金期を築き支えてきた多くのキャラクターが登場する。スーパーマンやポパイなど、権利関係のトラブルで出演が叶わなかったキャラクターも含めると相当な顔ぶれだ。ワーナー・ブラザースによるダフィー・ダックとディズニーの看板キャラクターであるドナルド・ダックによるピアノ対決(東京ディズニーランドのアトラクションでも聴くことができる)などのシーンは本作ならではだし、クスッと笑うことになるだろう。

 

シュガーラッシュ:オンラインはロジャーラビットの再来か

本記事の本題に移る。シュガーラッシュオンラインはロジャーラビットの再来と呼ぶに相応しい映画であると考える。……考えるというか、ロジャーラビットを知る多くの方がこの感想を抱くのではないか。ここにみっつの共通点がある。

①世界を巻き込むクロスオーバー

如実にその姿が似るのはクロスオーバーという手法についてだろう。アメリカンアニメーションを創ったトゥイーティードルーピーといった彼らの姿は、現代社会を支えるTwitterAmazon、ebayなどと同じ形をしている。ディズニーキャラクターのみではなく、世界を巻き込んであたかもその世界に入り込んだようなディティールが魅せる世界観はなんとも見事且つ絶妙なバランスだ。

②ディズニー映画のイメージを変える役割を担う

女性的魅力をこれでもかと盛り込んでデザインされたヒロインのジェシカや、アニメなので歳をとらないが六十代に突入した「還暦乳児」であるベビーハーマンが煙草を吸う姿は、ロジャーラビットがタッチストーンによって作られ、大人向けの映画として作られた背景に大きく裏付けされる。

ウォルトの死後、低迷期を経たディズニー社は、1980年代に「主要な観客は彼女らの家族である」とした。(Wikipediaウォルト・ディズニー・カンパニー』項より)

後にディズニーはこの方針によって女性や子供に対する人権問題を抱えることになるが、ロジャーラビットは黄金期とウォルトの死を受けスランプに陥ったディズニー映画のある意味での救世主として、今後の方向性に疑問と提案を投げかけるその役割を担うことになったのだと考えられる。

シュガーラッシュオンラインも今、同じ役割を与えられたところである。

ディズニーを”聖なるもの”として扱わなくてもいい――風刺やネット文化を詰め込んだ「シュガー・ラッシュ:オンライン」を監督2人が語る

http://nlab.itmedia.co.jp/nl/amp/1812/20/news004.html?__twitter_impression=true

イメージを守るため、キャラに“やらせてはいけないこと”を指示されることもなく「それどころか、もっとやってって感じでした。アイアンマンを出そう! イーヨーも忘れずにね! って」

https://www.cinematoday.jp/news/N0105694.amp.html

シュガーラッシュオンラインに下された使命は「ディズニーを神聖なものとしない」こと。特にディズニーは、マルをみっつ描くだけで訴訟されると言われるくらい突拍子も無い噂が立つのだが、近年のディズニーは、ファンの要望で監督がモブキャラに名前をつけるほどに二次創作に寛容になった。事実に反した神聖視がディズニーのイメージを固めていったのだが、シュガーラッシュオンラインはこれまでのプリンセス像に自ら疑問を投げかけたりだとか、ディズニーキャラクターにかなり自由なアクションをさせるといった点でかなりその功績を残せたのではないだろうか。「えっこれをディズニーがやるのか」と若干引くレベルで織り込んできたネットスラング的なノリにいい意味で困惑させられた。

③新たな黄金期を作る

『ロジャーラビット』は、ウォルトの死後に訪れたスランプを解消する一作としての役割もそれなりに果たすことになったと思われる。

実写化と続編ラッシュに拍車のかかる2018年のディズニーに待ったをかけるのが、シュガーラッシュオンラインだ。本作自体は続編にあたるというのは皮肉なものだが、前作を受けてストーリーの構成や舞台、キャラクターの扱いを根本から覆した本作は実質的に別の作品として捉えられる。

過去のディズニーのテーマ「女性と子供向け」を完全に消え去ることはせずとも、新たな道を開拓したロジャーラビット同様に、シュガーラッシュオンラインは過去のディズニープリンセスや多数のキャラクターを魅力的に描きつつ、その在り方に別の方向性を見出したのである。シュガーラッシュオンラインが描こうとしたメッセージは明確だが、その背後には別のシグナルが点滅していて、それをはっきり捉えることは難しい。一方で、この映画が過去のディズニーに対する1億ドル5日分の自虐であることは間違いないのである。

 

ただひとつロジャーラビットと違った点

これまでシュガーラッシュオンラインとロジャーラビットの合致点について考えてきたが、このふたつの映画には決定的な違いがある。

それは「ヴィランの在り方」だ。ジャンルをミステリーと評価されるロジャーラビットでは、最終的に明確かつ極悪な真犯人が指摘されるシーンがある。一方でシュガーラッシュオンラインはロジャーラビット及び前作シュガーラッシュと大きく異なる「お前が悪役だったのか!」という展開が用意されている。これまでのディズニーが描いてきたストーリーとはまたひと味もふた味も違うラストに衝撃を受けるだろう。

※3作のネタバレを交えて最後に詳しく解説します!

 

おわりに

この2作はメッセージこそ深く読み取りにくいものの、ディズニー映画史の中で重要なポジションを占める・占めることになることはほぼ間違い無いだろう。古くて新しい名作『ロジャーラビット』と、最新技術が最新のディズニーを描き出す『シュガーラッシュ:オンライン』。是非とも改めて目を通してみてほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ゆるく詳しく、両作品が描く「ヴィラン」とは?

ロジャーラビットで登場する一連のイベントの真犯人は、トゥーン達を裁く立場にあるドゥーム判事と彼の仲間のトゥーンパトロールのイタチらだったんですよね。彼らはトゥーンタウンをインク溶解液「ディップ」で消し去って、フリーウェイという片側6車線道路の高速道路の建設して大儲けすることを目論んでたわけで。彼らは基本的に本作で絶対悪として描かれます。多くのトゥーンの命を奪ってまで作りたい自身の功績。

シュガーラッシュオンラインの前身であるシュガーラッシュでは、キャンディ大王……つまるところのターボが「悪役」でした。緻密なストーリーから最終的に姿をあらわす彼は、ゲームセンタートップゲームとトップレーサーの座に固執して失踪と抵抗を繰り返すという悪行を働いてたわけですけど、彼もまた自身の地位と名誉にしがみつきたがる悪いヤツとして描かれる。「ラルフも辿る可能性のあった道として描かれている」という評価がありますが賛同します。

だけども、オンラインの悪役はラルフでした。らるふ。彼はもともと悪役でしたが前作で「悪役面のヒーロー」であることが証明されて、今作では「悪役面のヒーローだけど実は悪役」で、最後は成長して「悪役面のヒーローだけど実は悪役で、成長してヒーローに舞い戻った」わけです。ややこしいけど、この変化はとても面白い。彼はただの悪役ではなくて、ヴァネロペに不憫な扱いを受けるあまり彼女に対する友情が牙を向いてしまうという、とっても悲しい悪役なんですね。だから、悪役はラルフだけどそれを倒すのもラルフ。今作の表向きのメッセージはこの「正義だと思っていることが悪でもある」「変わる友情が強くなる」ことですし。

さらに皮肉なのはヴァネロペがゲーム機「シュガーラッシュ」を離れてオンラインレースゲーム「スローターレース」に移籍することですナ。ターボがやったことと大して変わらないけれど、受け入れてくれる仲間がいるか否かで善悪が変わる。ロジャーラビットはウケたからいいけど、万一コケてたらディズニーの黒歴史になってたかもしれませんね。

……余談ですが2018年に書き終わってよかった。2019年もよろしく。