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補足:「『個性』時代の夜明けと『人間性』の定義が変わる日」について

2020年5月、学校がなくて暇だったのでこんな記事を書いた。

tamifuru-d777.hatenablog.com

さて、本記事は2020/05/17現在、Think with Entertainments! 屈指の「わかりにくさ」を誇る。文中で示される内容の一部には共感を、一部には反感を、一部には困惑を覚えるだろうが、是非「解り難さへの挑戦」だと思って読んでくださると幸いだ。私もこの文章を通じて高度な思考の文章化へと挑む。いっしょに、かんがえよう。

 こうした挑戦的な内容であるが、幸いにもこの記事に対して様々な感想を頂いたが、その中でもとりわけ好みなのが、KuroUsada氏による感想。

www.kurousada.ga

TamifulD氏による面白い記事「『個性』時代の夜明けと『人間性』の定義が変わる日」はもう読みましたか?

ぼく「いや、そんなマストみたいに書かれましても……」

何はともあれ、本当に嬉しい。物書きの好きなものは、いつだって長文の感想なのだ。うむ。異論は許さない。

ところで、本文で幾つか触れられている疑問点について、私は補足を書こうという話をしていたはずなのだ。

読者諸君がご存知の通り、私は今の今までこれを書いてこなかったのである。約7ヶ月越しとなるが、なんとか可能な限りお答えする形で、補足としていきたいと思う。

尚、この文では、「『個性』時代の夜明けと『人間性』の定義が変わる日」を読んでいることを前提としていることは予めご了承頂きたい。

(以下、【「『個性』時代の夜明けと『人間性』の定義が変わる日」に対するいくつかの疑問と感想】内の章題から引用してタイトル)

(本文は私・TamifuruDによる「『個性』時代の夜明けと『人間性』の定義が変わる日」を、感想はKuroUsada氏による感想記事を指すものとする)

テーマエリアの分類

本文の中では自己解決している。確かに、この分類では、複数エリアに跨るものが多い。

第一の理由として、(感想でも或る通り)そもそもはっきりと分ける必要性はこの文脈においてないからだ。概念としての「キーワード型エリア」「ストーリー型エリア」「映画型エリア」を設置することが大切なのであって、その分類が明確であることが必要ではないからだ。

第二の理由として、上記の通り、それぞれのエリアをはっきりと分ける必要性がない以上、これらのエリア分類がグラデーションであることが、全く以て論理に干渉しないからである。

そして、そう、この表を作るのは大変だったのである(ここから言い訳)

ではこの分類が間違っているのかというと、そういうわけではない。むしろ私はこの分析はかなり的確なものだと思っている。詳しくは「私の考え」にて後述するが、テーマエリアの特徴はグラデーション状に分布しており、各々のエリアを明確に分類できるほどはっきりとした境界がないだけなのではないかと思う。そうだとすると、この表を作るのは大変だったはずだ。

(感想より)

元々この論では、「映画型エリア」と「ストーリー型エリア」の細分化すら行われていなかった。然しながら、東京ディズニーシーを考察していくに当たって、この二者択一だけでは記載しきれなくなったので、新たに第三領域を設置したという経緯がある。だから、分類自体が危ういものでありながら、分類した内容もグラデーションになっているのは、至極当然、致し方ないことであったのである(言い訳おわり)。

人間性」という言葉・『個性』とは何か

そこは「唯一性」ではダメなのだろうか?(中略)この言葉選びには筆者なりの考えが反映されているような気もするが、それがどういったものか残念ながら私にはわからなかった。ごめん。

(感想より)

こちらこそ申し訳ない。

こうした物事の唯一性を表現する言葉として「人間性」を使うことは出来ないだろうか。

(本文より)

本文では、「唯一性」という単語をかなぐり捨ててまで「人間性」という言葉を推奨する文脈を持っており、その内容はTwitter上の感想を見ても、どうしても伝わっていなかったようである。

これについてだが、端的には、スパゲッティの中でもとりわけパスタと名前をつけているようなだけに過ぎない。だが、それでも、パスタと名前がつくのには大きな意味がある。

従来の「人間性」とは、例えば、「彼の人間性を疑うね」などのように、「人間の性質」としての「人間性」であった。「彼の人間性を疑う」とき、彼の「人間の性質」が健全であるかどうか、悪徳なのではないか、と疑う。一方で、私が与えようという意味は「(その)人間であるという性質」なのである。これが「個性」と違うのは、「個性」とは「個の性質」でありながら、インターネットがもたらした個性の可視化に因って起こる個性の氾濫によって、選択制を余儀なくされていることである。これは、本文にも書いた通りである。

一般に「他の人とは異なる、その人独自の特徴」を「個性」と呼称しているはずだが、もしその定義をここでも用いるならば、本論で主張されている「人間性」もまた「他の人と有意に区別できるその人独自の特徴」ということになり、そこに違いを見出すことができなくなってしまう。 だが、本論はそんな単純な話ではなく、「旧来の個性」では「個性がある」という括りから抜け出すことはできないという話のはずであり、(以下略)

(感想より)

敢えて形容するならば、個性というのはハッシュタグであり、私の言う「人間性」とはアカウントである。個性は、#ギャグがおもしろい とか、#料理が上手 とか、#ディズニーが好き のように、他の人にも使用される可能性があるものだ。これらは利点として、#ディズニーが好き でソートすれば、複数の人間を特定のベクトルで一挙に集めることができるということである。他方で、「人間性」とはアカウントであるので、IDが重複することはなく、「その本人」でしかない。DMやリプライをする相手としてその個人しか認められない、という意味でそこに唯一性がある、だから、それを「(その)人間であるという性質」とし、私は「人間性」を用いていた・いるのである。
感想で言葉の恣意性について触れているように、確かに言葉と意味には必ずしも必然的なつながりがあるわけではない。

私が本文に於いて大きく誤っていたのは、この言葉を「物事の唯一性」を表すものとして紹介したことであったのだろうと思う。正確には「個人の唯一性」に限りなく近い意味を持っていて、テーマパークや映画を用いたイグザンプルはその代表に過ぎない。

没個性化という現象

感想の最後には、KuroUsada氏による見解も掲載されている。ここに於いて、人間性というものをもう一度改めて紹介してみる。

まず、「個性」を「その人を他人と有意に区別できる、その人独自の特徴」と定義しよう。

(中略)

他の人と区別できない要素(例えば、あなたの体に水素原子が含まれているかどうか、など)は個性になりえないことになる。 そして、時代や情勢の変化によって「かつては個性であったがもはや個性とはいえない」特徴も生まれてくる。 和装が主流だった頃は洋装が個性であったが、時が経つにつれて洋装が一般化したことで、現代ではむしろ和装でいることが個性になってきているように。

(感想より)

 感想では、「個性」を「その人を他人と有意に区別できる、その人独自の特徴」としている。そして、「かつては個性であったがもはや個性とはいえない」ものを設定している(この和装と洋装の喩えはとても分かりやすいので、私が発明したことにしてほしいくらい)。

ここで、私の方での定義を持ち出してみるのは些か無粋であろうが、私の本文に宛てた感想であるということから、恐縮ながら当てはめてみたい。

感想に於ける個性の定義は、私の本文での定義と全く相違ない。本文に於いて、個性を定義していなかったことが、ここにきてマイナスになっているわけだが、ここでは感想に於ける定義を借用したい。私の方での「人間性」の定義は、「(その)人間であるという性質」であって、さしずめ「誰が和装/洋装を着るか」という問題に直面しているということになるのである。

時が経つにつれて洋装が一般化したことで、現代ではむしろ和装でいることが個性になってきている

(感想より)

没個性の時代に於いて、服装の例に即して述べれば、「洋装」(かつての個性)が「一般化した」(没個性化した)ことで、「誰が洋装(かつての個性)を着るか」(人間性)にフォーカスされるようになった、ということなのである。そこで生き残っている、例えば、和装という個性は、現在でも個性としての威力を持ち続けるが、そうしたものの存在をひとつ超越したより詳細な唯一性に関して、私は「人間性」と名をつけているのである。

このように、個性は変化するものである。誰かが他の人と違うことを始めてだんだんとそれが受け入れられるようになり、参入者が増えて個性ではなくなるというサイクルである。このブルーオーションとレッドオーシャンの繰り返しこそが没個性化という現象なのではないだろうか。

(感想より)

こうした個性の定義の仕方に出会ったのは初めてだが、確かにそうなのである。「人間性」は端的に「(その)人間であるという性質」のことを指すのだから、これに代替が利くことは全くない。ブルーオーシャンレッドオーシャン、どちらも同じオーシャンであるならば、大地がなければその上に海は存在できない。その大地こそ人間性であるということである。それは、個性によって彩られてはいるが、最終的に指し示されるものがその一点になる、という性質があるのが「人間性」である。

おわりに

KuroUsada氏にはTwitterでも毎記事に欠かさず感想を頂いていたが、その旨は改めて感謝したいと思う。

氏の記事に於いては、『東京ディズニーリゾートにおけるBGSとキャラクター主義の台頭』というものがとても面白く、ここでは「ラベリング」という概念が登場し、現代の東京ディズニーリゾートの事情にメスを入れている。「ラベリング」と「個性」には近しい部分もあるので、良ければ御覧になってみてほしい。

この文章が補足に、ディズニーランドを通じて社会を考察するという営みの一端を担うことができていれば幸いである。